月乃宮千晶 プロフィール

月乃宮 千晶

自分の中に眠る葛藤を小説として書きあげる著述家 兼 歯科医セラピスト。
近年さらに新しい能力の開花に気づき 多くの人を救いたいと 積極的にヒーラーとしての活動も行う。以下に詳しいプロフィールを加えることにいたします

      ★〈生まれてから6歳まで>★

 私は昭和40年代の、8月4日 板橋区東武練馬のある病院にて生まれました。

 大変恵まれた家庭に誕生しました。そして、祖父と祖母とともに暮らし、またたくさんのとスタッフと共に過ごす幼少期でした。

 親が小さいながらも病院をしていたからなのです。

入院患者さんをまわり、配膳もしていた母。その勤勉な態度は私ののちに非常に影響いたします。

 お腹の大きい時に、まだ私が胎児の時に入院患者さんを見て回ったという母の行動は

私が病院の雰囲気と匂いがとても好きであるという風変わりな趣味を導いたものです。

 不思議に病院にいると安心したということを覚えています。

 さて、幼少のころは兄からの影響も受けました。

 兄は活発で、私とは二歳違いですが、自転車の二人乗りをしてころげ、その時にけがをしたのをおぼえておりますが、そのともによく遊んだという経験ものちに影響しているかと思っています。


 なんでもこなす兄のようになりたいとひそかに思っておりました。

 そして、父は一代で大きなものを作り上げた人でした。

 その器は尊敬しております。

 その母と、父と兄がいて、祖父がいて、祖母がいる、その環境ではどのようなことが起こるか大体お判りでしょうか。

 俗にいう、嫁姑問題です。それは母にとりつらいものが有りました様です。

初めて生まれた女の子だと、かわいいと連れていく祖母に、私の子供ですから返してくださいといったこともあるようです。

大きくなり、あまりそのことを聞いてもピンとこなかったのですが、いまおもえば、血の通わない方にこの言葉を直接いうということはかなり勇気がいることなのではないかなと思っております。

仲がわるかったわけではないのですが、少しバチバチしたものが有る緊張した雰囲気のなかで私は過ごしたことになります。

 幼稚園は年少からいったとおもいますが、あまりなじめませんでした。カトリックの北町カトリック幼稚園でした。

それはキリスト教の考えが幼少からしみこんだことにはなりますが、

宗教にすべてをかけていた母方の祖母の姿を見ていた母は、私がそのようになってはならぬと、

幼稚園でいただいたマリア像を頬り投げてわたしにしかったのを覚えています。覚えているのだからそうとうショックだったのではないかと思います。家でマリア様、と毎日大きな声でお祈りをしていたようですからね……。

天にましますわれらの父よ………という、あの出だしの言葉ですね。


 さて、父はおとなしく母は辛抱強く、また兄は活発で、私は比較的おとなしい方でした。

幼稚園においてはひどくものをはっきりいう子がいて、あまり好きでない子、だったのでしょう。ただ、救いはりえちゃんという親友がいたことです。そして、Iくんという子が好きでしたのも(笑)私の初恋だったのだと思います。

りえちゃんは私の広い家に遊びに来てくれました。たしか、おままごとで盛り上がっていたように思います。そして、池があり、広い庭のある家で、縁側のところで夕方くらいまで遊びました。

この縁側は私に日本の情緒を教えてくれました。よく線香花火をしたのもおぼえていますが、

その風景はいまだに夢に見ることもあります。

花火が好きになりました私のその後はここで培われたのかもしれません

 

それから、私は迷子になったこともありました。幼稚園の帰りに親とはぐれてしまったのです

それは驚きました

 川越街道を泣きながら歩いている自分の姿が目に浮かぶのです。実はこの時に私は幽体離脱をしていたのではないかと思います

じぶんの姿を客観的にみているのですね その時はなぜ私はわたしをみているのだろうか、と…まあ、あまりかんがえられなかったのかもしれません。

それから、この迷子事件において、わたしは泣きながらもしっかりと自分の家に帰りました。かなりしっかり者のようでした。そして、かなりおそくなりましてから、母の心配そうな姿を庭から入ってくる姿を縁側から見ているのを思い出します。

 また、私は幼稚園では、園長先生が牧師さんでしたが、この牧師さんにはなしかけられても無視をしたのをおぼえています

それは父と母が知らないおじさんに話しかけられてもはなすのではないよ、と言われたからなのですその通りに守ってますね。

自分でもなんて従順な人間だったのだろうかと思っております

 兄を尊敬し、父をすごい人だと思い、母の影響をつよくうけ、そして祖母祖父の深い愛情をもうける恵まれた律儀で傷つきやすい6さいですが、幼稚園にはいかなくなりました。お友達がいやなのか集団生活に嫌気がさしたのか…

おぼえてないのですが、卒園式に行く前にどうやら引っ越しをしてしまったように思います

それは祖父と祖母から離れたビルでの新生活を始めることになるからでした。そのころ、母のおなかには妹がいました。それもあるからなのでしょう、

私たちは隣町に引っ越しをすることになります。

                

            ★<小学生時代>★


7歳からのことをお話致します。

私は、父が建てた五階建てのビルに住むようになりました。

スタッフも住み込みの賑やかな小学時代を過ごしました。なんといってもきょうだいとのかかわりでした。

わたしにとり、小学時代は、勉強と習い事と運動の日々でした。

運動は腕たてふせを良くしました。クラスでわりに勉強のできる男の子がひとり、皆で腕立てをしているなか、50回超えてもやっていたのでそれをみてくやしくてしかたなかったのを覚えています。そして、1,2と数え上げる先生をよこでみて、くちでいうくらいなら、「腕立てしなさいよ、いっしょにさあ」と心の中は常に叫んでいました。

それでも、だれにもうでたてふせだけは負けたくないという、強烈な思いがあり、家で毎日50回していたのを覚えています。この精神は大人になってもやくにたつようになります

また、障害物競争の区の選手でしたし、毎回リレーの選手でした。

しかし、私はまじめですから。(笑)

前をしっかりむいて、といわれていたので、バトンタッチの時に前をひたすらみているばかりで、「なに、あの態勢、ばかみたい」という目で、一緒によくリレーの選手をした女の子に にらみつけられていたのを覚えています。私と同じ千晶さんという人でした。!(^^)!

弟のことを作文に書き、それが表彰されたことも有りました。

毎日新聞に載ったものです。文章好きはこのころからひそかに目をだしていたのでしょうか。

 それにくわえ、ピアノがやはりクラシックの中で特にベートーベンが好きでした。

 暗いものを聞くと安心しました。そして、実は晴れの日よりも雨の日が好きでした。

これは体育がめんどうであったからなのかもしれません。(笑)

いくらかボールの競技が苦手でした。ですが、その中でゴールキーパーだけは得意でした。

「なにこれ、すごいしぶとすぎ、こいつ!」とハンドボールの得意な女の子に面と向かい言われたくらいです。防御においてはかなり自信がありました。絶対にまけるものかという根性が座っていたのを覚えています。

さて、学校で書いた絵は展覧会に出されました。区の中で 選ばれましたのは日光東照宮の絵でした。デパートの中で展示がされました。

緑をモネの絵のようにかくのがたまらなく好きでした。

そして、それはきっとのちに 緑が大好きでたまらない自分へと変化させていくのです。

 また、習字は兄と低学年の時に習いました。学校帰りにおなかをすかせ、近くの駄菓子屋さんで おふの御菓子を買い 食いしたのをおぼえています。

 その時に兄と「におったりしないよね、ママにばれないよね」と匂いを嗅ぎあいそれで家に帰ったのを覚えています

 わたしの母はとにかく教育熱心でした。

  しかし、母から学びましたのはとにかく料理に手を抜かないことです。

  いまはだいぶ手抜きをするようになってしまいましたわたしですが、結婚当初はすべててづくり、おせちさえもすべて手作りをしたのを覚えています

  私には、母のようになりたい、という憧れがあったのかと思います。

 そして、つねに自分の周りは憧れだらけでした。兄も尊敬していました。母が大好きでした。兄はとにかくあたまがよい、運動はできる、また人気もありました。

 ただ、はっきりしている兄でしたので、ある時に兄の担任と兄はトラブルがありました。その時にさらに別に理由があったのか、学校を転校してしまったのです。

そして、兄が学校から去ってからその翌日。学校で大変なことが起こっていました兄の同級生の女の子の人だかりです

「どうしたの?」「これあげて~」これプレゼントしてと、それはすごいものでした。

 わすれないのですが、その中にリーダー格の女の子がいました.Hさんという人でしたね。

 その後ろには副リーダー格の人もいました。この時にすごい人を私はきょうだいに持ってしまっているのだと鼻高々でした。

 私は普通でしたが、学級委員は成績がまあ良いということでやっていました。

 職人気質でありながら静かなリーダー性を持ち合わせる父に にているのではないかと思っています。

 ただよく数学ができなかったのですが天才といわれました。「天才は忘れたころに覚えちゃう」という言葉を私のために作った人がいたくらいにとにかく物をよく覚える子でした。

それは将来国家試験には やくだつことになります。

 また、器量はあまりよくなかったのですが、色白なだけで美人、と言われました。また、背が高くほそかったので、あしが早く常にリレーの選手でした。これを維持したいと、かなりの年になるまで全力疾走を 普通のようにしていたのを(笑)覚えています

  さて、私にはほかに妹も弟もいたから大変です。それは賑やかでした。私はなかば母親のような役目をしていたようです

  そして、小さい時に良く面倒を見てくれた祖母のところにはよく行きました

  その時に「千晶がお嫁に行くまで、生きていたい」いわれたのですがこのころから嫁という言葉が大嫌いでした。(笑)

  私は妙な点において、好き嫌いがはっきりしていました。私は将来結婚することになるのであって、嫁にいくんじゃ  ないよ、と思っていました。(笑)


 そして、さらにどこか負けず嫌いでもありましたそれは受験勉強をするという形であらわれました。

  ですが、どこかいつも夢を見ているような少女でもありましたので、なぜか勉強に集中はできなく、(笑)

 女子学院と一流国立だけを受けたのですが落ちてしまいました。

 家から線路が見えたのですがこのポイントに三時何分までに電車が来たらうかる、とか………風変わりなことをして  いたのですが、いささか妙なものを好むのがわかるようなことになっていきます。

        ★<中学、高校時代>★

上板橋の中学に行きました。そこでは、初めての環境でとても緊張しましたが親友が出来ました。さくらさんという子です。おとなしくて、優しい美人な子でした。そして、Kさんという子も親友としておりました。

 

私は卓球部に入りましたが、そこでは思いのほかきびしいものがあり、二年くらいでやめてしまいました。

もちろん、ピアノをして居たり また、勉強をしないとならなかったりということも有ったからです。

そういえば、怖ろしい思い出もあります。人身事故を見てしまったということです

綺麗に切断されたご遺体を初めて見てしまいましたそれはshockなものでした。のちにミステリーをかけるようになったのはこのようなものをみてしまったことも関係あるのかもしれないと思っています。

さて、勉強はよくできました。それにそのため尊敬もされました。私は器量がよくないから、あとはカバーできるのは勉強でしかない、

あるいはピアノしかないと思っていました。

その時に何になろうなどと考えたことはあまりありませんでした。親が歯医者になってほしいと言ったのは覚えています

それをどこかで私は頭に入れていたのか…なにも特に意思もなかったので、親ののぞむものになるのが良いのかなあと思ってはおりました。

そして、私はひたすら勉強をしました

その結果なのでしょうか、ある日私は突然倒れてしまいました。単に過労とおもいきや、ちょっとわけが違うのです。私は泡を吹いて意識をうしないけいれんを起こしてしまうのです

それはてんかんと診断されました。それはshockでした。

ですから、この病気を高校受験がはじまる前になおそうということで通院治療が始まりました

それは大変でした。神経内科にいき、そして、処方された薬を私は飲むようにしました。

その結果なおったとおもったら、かえって調子が悪くなる一方でした

私はただ生きていましたように思います。そこで、私はどうにかしないといけないと思いました。受験において、都立を受けるのに内申点というのが大きく左右するからです

治すために、ひたすらかよいました。……しかしどんどんわるくなる。これはまずいと親は思いましたようです。

私はただ眠く重い体を引きずる、そして、勉強する、それで精いっぱいでした

ですから、時に学校を休む日もでてきました。

そして以前より、成績が振るわなくなってしまったのように思うのです。

その結果都立受験に失敗してしまいました。

都立のすべり止めと当時言われていた豊島岡に、私は行くようになりました

それはたのしい学園生活がはじまるかとおもっていたら、その前に私はとにかく入院しようということで、別の病院に行き入院検査をしてみました。ですから、中学の卒業式には出れなくなりました。

そして、遠くの大学病院に入院しました

そこでは意外な答えを聞きました。それは薬が間違えていたのではなかったかということなのです

私はびっくりしました。偉い先生の医師が間違えてしまうということも有ることにも驚きました

お医者さんは絶対だと思っていたからです。

この経験は、のちに自分が、患者さんに対しそのようになってはいけないという、決意を固める礎ができたということになりましょう。

 そして、私は治すことにしました。

 別の薬を飲むようになりました。それはしかたないものでした。ですが、その診断を下してくださる先生には心から感謝していました。

  観音様みたいでした。○○観音、と母はよんでいました。

その先生はクリスチャンでした。これは私の恩人のひとり、のちにキリスト教に興味を抱くことにも関係してくることになるのです。

 

  私はやがて、このクリスチャンの先生のおかげで29さいくらいまで薬を飲むようにはなってしまうのですが

  完全に発作がとまるようになり、薬から開放されるようになりました。

  いまでこそ、薬漬けはよくないということになっていますが、当時のわたしにとり、やはり薬はありがたいものでした。ですが、このことを誰にも言ってはいけないといわれたために私は苦しい時が在りました。

副作用がそれなりにあったからなのです。むくんでしまうこと。そして、常に眠いこと。また、情緒が少し不安定になりがちでした。苦労しました。

ですが、そこで救いになりましたのがあります。

ピアノになります。その音色には癒されました。激しい曲が好きでしたがこの心の葛藤を表しているような気持ちがしたのでしょう。

また、この先生の影響で、わたしはキリスト教に関する書物を読むようになったと思います

三浦綾子さんの氷点がはやりましたのは、高校生のころだったと思います

高校生の頃はくすりのせいもあるのか、遅刻ばかりでした。私は精いっぱい生きていましたが体がおもくてしかたなくですが、親はだれにもいわない方がいいという。

わたしは馬鹿正直なのでこれをいってはいけないというのがあったのかもしれないのです。もちろん、親を神のように敬う従順な私はヒミツを遵守しました

常にそこで私を救ったのはピアノでした。

ピアノは私を別世界にいざなってくれました、この逃避が私には救いだったのです。

その高校時代は規則だらけでした。面白くなかったので早く共学の環境にも行きたいと思っておりました。

高校ではひたすら、ボケたキャラでした。(笑)

そして、英語もすきでした。音楽のように同時通訳方式で学びました。

わたしはエリートのきょうだいにくらべ、ほこれるものがほしかったので、英語とピアノがほかのきょうだいよりできるということがうれしいことでした。

また、常にただおやが喜ぶように生きてれたらいいと思っていました

しかし、高校二年くらいから音楽の道に行きたくなりました。これは大反対をくらうようになります



           ★<高校二年より立教大学まで>★




私はピアノの道に進むようになりたいと思い始めていました。

パンばかり弾くようになるのですが、この時にひそかに彼女のようになりたいと想っていたのかもしれません。

ですが、いまからでは限界がある

そこで、近くのところか練習を頑張って国立音大に行けるようにしたいと思うようになりました。

練習は大変でした。声楽の先生のところにも行きました。時間がなくてまともに勉強ができなくなりました。

ですが、学校の勉強の中でも、英語だけはすきでしたので、これは頑張っていました。

ある日母に泣かれました。

このようなことをするために産んだのではないと。

そして、何のためにこのような道に行くのかと言われたのです。

私はただピアノが好きだからとしか思えない感じでした。あまりにないているので、私は申し訳なくなりました。

そして、母と、帰りに宗教をしている方の祖母が入院していた日赤病院に祖母のお見舞いに行きました。

その際にじっと私を見つめて無言でいる、そして、手をしっかり握っている祖母の目をみると、母の言うとおりにした方がいいのだということをなんとなく思いました。

今でもそのシーンをわすれていないのですが、

「おかあさん、私ピアノやめるから」とはっきり家に入る少し前で言ったのを覚えています。

母は、家でばかり仕事をしていたわけですが独自の資格を持っていたわけでは有りません。

ですので、母は娘たちに託す夢を持っていました。それは、生涯自分だけで生きていけるような資格を持たせることなのです。

私はそのいうことを聞くようになっていくようになります。

学校では、高校3年になりましてから進路をどうしようか、ということになりました。

散々もめてしまいました。今からでは理系は間に合わない

そして、あまりよくおぼえていないのですが、

隠れてDJになるための資料や日本芸術大学の入学のことについて、今度は調べるようになっていました。

とにかく興味が理系については有りませんでした。そこで、あまり短大ぐらいにしか行かれないような学力しかないのなら、これは浪人した方がよいということになり

一年浪人することにしました。

一橋予備校が一番学費が安価のように思いました。それで、母に話しここにすると私は言いました。


とにかく忙しい学校生活から、卒業いたしました。

在学中は、たまにやけを起こしてやけ食いをしてしまいました。

バタークッキー缶一つをまるまる開けてしまったことも有ります。

私がここで覚えておかないといけないと思ったのは、高校生は死ぬほどいそがしいから、将来子供ができてもあまり用事をたのんだらいけないな、ということを覚えておこうと思いました。

気分転換に英語の文通を密かにしていました。すでに同性異性問わずペンパルが数人いたように思います。

そして、一年浪人してからそれから立教大学に入ります

大学では哲学の専攻科に入りました。入るのに簡単と聞いていたからでした。

とにかく楽をして……(笑)近くておしゃれな立教にいけたらいいとおもっていたのです

すぐにE.S.S.含め英語のクラブ二つに入り、スクエアという、軟式テニスサークルにも入りました。

(のちにこのサークルはつぶれてしまったようです)

9号館というところが集合場所でよく城北公園にいきました。

ルーエという喫茶店に行くのが常でした。そのルーエは休息という意味のドイツ語なのですが、これは私が大学でドイツ語をとっていたからです。

ここではたくさんのお友達ができました。

とにかく広く浅く付き合いました。

合コンにも行きました。たいへん楽しかったです。

ですので、二年生の時に編入でなく一年制から歯科大に行くことにするのですがこれが非常に悔やまれました。

てんこちゃんというお友達は、のちに、立教の皆が卒業するときに謝恩会を高輪でするから、という案内をくれたのですが、歯科大は遠かったので、行くにも大変で断ってしましました。

 この立教での経験はのちにキリスト教をあいし、友達との交流が好きでたまらない性格になるというところにもつながっていきます。充実した青春時代でした。

 女の子には特に好かれました。千晶ちゃん千晶ちゃんと呼ばれました。

それでいて、あらゆる誘いもことわらないので、スケジュール帳もまっくろでした

 朝方スキーバスでからかえり、それから大学に行きそして、クラブにいく、さらに気を使うということをくりかえしていたら、ある日倒れてしまいました。

 それは親にまた怒られてしまいました

また、アルバイトをたくさんしたのですが、このなかで、自然な形で自分が組織の中ではやっていけないタイプであるということを学習し始めました。

その経験が、歯科大に行く方がよいという選択に向かったのだと思います。

父も母も大変喜んでくれました

 

英語のクラブにおいては、討論の部にいました。

この部は、男の子も女の子も不思議に歯科大に行きそうなタイプの人が多いという特徴を感じていました。

そして、なぜかみんなが卓球部である人が多かったという点が笑えました。

みな、それぞれ、共通点のある場合というのは同じような方向にすすむのかな、と思います。

そのような分析が好きなのはこのころからだったのかもしれません。

B型が多いのは討論の部、そして、歯科医も実はそうでした。

だから、違和感を感じないで歯科大に転向できたのかもしれません



         ★<歯科大、研修医時代>★




二年のころにはとにかく立教での授業中に生物を勉強しました。

歳をとってしまう前に(笑)歯科大に行かないと思い焦っていました。

そして、歯科大に行くことになりました。

なんとか家から通える距離でしたが、3年からは学校の近くにアパートを一室借りました。そこで、勉強が大変な時は泊まるという形にしました。

 

 立教をやめたくなかったのですが、ダブルでいくと法に触れてしまい退学になるときいたのです泣く泣く退学しました。

 歯科大では、みんなより3歳年上にたありました。

はじめは少し気後れしましたが、そのうち年齢があまり関係ないということを実感しました。

みんないろいろなことにたけていて、個性ある方もいて面白く、男の子が多い環境が刺激的でした。

今までにないものでした。

ただ、実習が苦痛で仕方ありませんでした。

競争するような感じに思い、自分が事をおえていないと、非常に焦り涙していました。

これには困ったものですが、これは薬を飲んでいたことも関係しているのではと思います。

制御ができないというか、不思議な情緒不安が常にありました。

それに加え、しかし飲み会が大好きでした。これは人を選ばないで、とにかくいつも行きましたのを覚えています。

とにかく不安がおおいものだから、さみしいような気持を埋めたかったのでしょう。そう思います。

そして、個人的にもいろいろな人と仲良しになりました。

特に高学年になると、臨床の大事であるということも考え、歯科医院へアルバイトにも行きました。

 自分でお金を作れるという喜びもありました。その歯科医院は、学校からは距離がありましたが、とても親切でそして、何時もいろいろな先生が出入りしているユニークな医院でした。H歯科でした。

楽しいおもいでもありましたが、怖い先生もいて、気も使いました。ここでの経験はのちにも強い影響を与えたかと思います。この先生は二人目の恩人です。

 このころ、毎日聖書も読んでいました。こころが不安定でもあったからです。

おまけにむくんでいました。あまりにむくんでいるので、悪口も言われました。

でも、自分は自分だから、いいや、と割り切っていました。

その姿勢に感動してくれる同級生も、心優しいみかたもいました。よくいろいろ個人的にも飲みにも行きました。

 楽しい思い出でもあります。ここでは女の子のお友達ももちろんいましたが、途中でお友達をかえたくなり、ある子たちから離れ疎遠にしはじめたのですが、すると、女の子に仲間外れにされた時期がありました。

少しつらいことでした。ですが、それを常にみまもり、かばってくれる人もいました。

田舎の学校ですから、人間にまず目がいくのです。とても心あたたまり、感激していました。

そして、卒業するようになります。

 国家試験に備えては、とにかくすべて丸暗記しました。

むずかしすぎるので、暗記がわたしにとり、一番早い方法でした。

そのあとに余裕があればかんがえるのでいいや、と思っていたのです。

それがその当時は一番有効でした。

今の国家試験とは明らかに違います。

もともと文系志向でしたから暗記のほうが得意で知識を積み上げていくような作業のほうが好きでした。

自分の好きなもの以外に興味がない傾向が在りました。

考えていくということにおいては芸術系ならよいのだけど、という感じです。

この傾向はのちにいろいろな影響をあたえてしまうことになります

 

 そのようにして、自分は楽に国家試験にもうかり、無事に卒業しました。

仲たがいしていたのかな、という子とも最後は仲直りしました。

平和が好きなのでとてもうれしかったです。

そして、今度は家から通える歯科大の附属病院の研修に行くことにしました。

研修医の試験がありましたので、この試験を受けて無事にうかりました。

ですが、ここはエリートばかりの集まるところに所属してしまい おまけに傷つきやすい性格が災いして閉じこもりがちな性格になってしまいました。

その影響は良い形で現れませんでした。周りからの誤解だらけです。それはつらいものでした。

また、暗記中心で乗り越えてきた私は、すべてを理解しまた実地を一年こなしてきたエリートの研修医から見るとバカそのものでした。


これは治したいと思いました。ですが、ここで頑張っても自然にまかせるより仕方ありません

とにかくなんとか仲間はいましたので、お互いに励ましあいなんとか二年を終えました。

それからはある開業医に努めるという選択をとるようになります。


                ★<開業医勤務時代から結婚へ>★


 歯科大を卒業しそれから開業医さんで働きました。私は14歳のときからのものをなおすために、病院には定期的に通院していましたので、それもあり歯科の勤務は当時少しだけ苦痛でした。

医院ではどうしても院長と同じやり方でしないとならない状態という、ストレスもあるだと思います。

そのやり方が正しいとは思いませんでした。たくさん練習をして、教科書と同じようにするようにがんばりました。

ですが、実際の臨床は違うものでした。ほとんどの先生が卒業してからも多額なお金をかけ、また勉強をし直すような状態でした。

それには疑問を感じてしまいます。

時間のある時にとにかく金額がかからない程度の講習会に行くように努めました。

勉強する歯医者か、そして難しい言葉をしっているかどうかでその歯科医の人間としての価値も決められてしまうような感じでもありました。

また、狭い世界の仕事ですから、そこの部分だけを、見て仕事をしているのが私としては時に非常に苦痛となってきます。

そして、何も話すということなく口がきけなくなっていくような自分に焦りを覚え始めました。

ただ、気の合う友達がいるということにはたすかりました。歯科医院では、よく話せるお友達ができました。

 K先生という、鹿児島出身の女性の先生です。この先生には子育ての相談を頻繁にしたり…のちまで、感謝するようになります。

また、恋愛感情なのかわかりませんが言い寄られるようなことも有りました。


男性歯科医は自分の周りに、結婚を考えるには適した人がなく、おまけにその当時は、あまり良い人がいなかったように思います

 それで、私はもう20代後半になっていました。ふと、きづくとこのままでいたら結婚できないという恐怖が来たのです。

これはまずい、しかし、歯科医は変なヒトばかりだからいやだと心から思い、別の職種の人の紹介をお願いしようと思いました。

自身で、相手を探すということを思ったのです。

そうすると、何度かお見合いのような形でそれで結婚相手を探そうかということになりました。

言い寄る人がいて、怖かったというのもあります。

そのままよくない恋の道に入りそうな気がして、それを結婚するということで避けたいと強くおもうようになったというのもあります。

ずるい考えでもあったかもしれません。

そして、私は結婚相手をみつけるのですが、まじめな、また、家が医師なので同じ職業の人が好いかなと漠然とおもいました。

そして、Aとであいました。この人はちょっと堅物な感じがしましたが、彼は自分で学費を工面している親思いの人でした。誠実の塊のような印象を受けました。

出会った日は嵐の日でした。このような台風の日にあいにきてくれるはずがないと強くおもっておりましたが、いました。その意外性に驚きました。少し変わった人という印象でした。

ですが、それがあきらかにじぶんにとり、安心感ともなりました。

自分たちの家がかなり個性的な家であったからなのです

また、文学も好きな人でした。私はあまり文学には興味がさほどなくどちらかというと、詩歌やうた、英語のような音楽のようなものを愛していました。

(それでも、ドストエフスキーをボーイフレンドに進められて読むことも多くありました。また、芥川の書籍にはピアノという題名のエッセイのようなおはなしがあり、このような類いのものが好きでした。私はこのむものが比較的はっきりしていたのです。)

ですから、この文学や書籍を愛している医師ということにも興味を持ちました。

これは間接的に私がのちに文学活動をするということに影響を与えていたのかもしれません。

 恋愛感情というより、安心感でした。そして、何よりも裕福な家庭のなかですごしたのに、精神的なものがいささか満たされていない様に思っていました。

本当に好きなことを追求していくためにも、今自分に必要なのは精神的な解放感でした

それはどのようなものかもわかりません

 きょうだいにはとても明るく楽しいだけの私にはみえていたのですが、自分の中では常にくすぶりのようなものが有りました。

もっと好きなことをして生きていきたいという欲望でした。

それは完全に満たされるには結婚してからだろうと思ったのです

そして、私はこの地方出身の素朴な、まじめな医師と結婚することになったのです。

父も母も大賛成でした。それが非常にうれしいことでした。誠実なまじめな人だからです。

そして、この人と一緒にいる時のA氏の、私を見る目が大事なものを見守るようにおだやかで、安心だと父も母も言っていました。

私も、とても自信あふれていて、のびやかで幸せなのが見て取れるといっていました。

父も母も賛成してくれる。そして、自分も思うようにのびのびできる。

それなら、大丈夫とおもいました。

おまけに、A氏は私と時間を過ごす中で驚くほど変わっていきました。

とても柔らかくなり、顔立ちもこわばった神経質な雰囲気や痩せているような感じが消えていったのです。

 A氏のご両親がこれに驚きました。そして、それを聞いたときに私はうれしさと感激でいっぱいでした。

私を求めてきてくれる人がいる

そして、私といることで、ここまでよく変わる人がいる

それは何より私の自信になりました。そしてこれが私の幸せでもあったのです。


            ★<結婚、そして、子育て>★


結婚してからは、初めは大変でした。

地方から出てきた主人は、関東の病院では初心のもの扱いでした。それは仕方ないものでした

ですから、はじめは私は毎日に近い状態で働きました。

以前勤めていた開業医は、薄給というのもあり、生活のためにやめました。

それで、歩合制の歯科医院に勤めました。自分の仕事の売上分がその分反映されるからです。

私はけんめいになり、働きました。

とにかくたくさん治療を保険でこなすということに奔走しました。

スポーツする様に働いているといってもよいでしょうか。

それは汗をかき充実している毎日に初めは思えました。

時には倒れそうになりながら、しかしだんだん、違ってきました…

眼精疲労になり、吐き気をもよおし、うずくまりながら1時間かけて帰ることが在りました。夜遅くまでの体制に耐えられませんでした。休みのない勤務に耐えられないのです。

よく寝込んでもいました。あまりにハードに働く日々に時に耐えられませんでした。

その結果家でも泣いたこともあったようにおもいます。

どうやら、自分の場合は涙を流すことでストレスをとることもしていたのではないかと 思うのです。

主人は優しい人でした。そして、一生懸命に働く私を慰めてくれました。

また、ちょうど母が癌になり、働くペースをダウンさせないとならないというのもあり ました。母は足利の病院にいたからです。


本当に女性にとり歯科の仕事は酷でした。時間が夜中心、そして毎回の疲れ方が尋常ではありません。

ですから、いかにして疲れないで長時間仕事が出来るかなどの人間工学的なことも調べたりもしていました。

ストレス解消にこころの支えとなっていたピアノをまたし始めてもいました。

やがて母が亡くなりました。

それから、しばらくして私の恩人である、病気をなおしていただいた人もなくなりました。

(29歳の時に私は自分の薬を断つことができるようになりました。それで、結婚もできる、子供も大丈夫とおもえるようになったからなのです)

 さて、いろいろな人の死に対面することで、私はその命の意義についても考えるようになりました。これは小説などを書くということにも影響してきます。

 母が亡くなって間もない時には秩父に住んでいました。

主人の仕事でついてきました。そのときに、思わず自殺をしそうになりました。

何でも母にきいていたから、大好きでたまらない母がいなくなり、きっとどうしていいかわからなくなったのです。

それは不思議でした、いつの間にか車に突進して今いました。

恐ろしいと私は心から思ったものです。ひとはどのようにして、このようなところにいたるのか、

そこまで泣き続けた日々があって、それにつかれた瞬間があって我を

忘れてしまったからなのだと思いました。

それには驚きました。

ちょうどその様な時にこの心のサイクルを防止できるものが、今に取得なりなにかできたらいいな、と思ったものです。

その時のわたしにとり、ちょうどいい防止するものができました。

ものではありませんが、子供の誕生です。

わからなかったのですが、私は秩父を引っ越すときにすでに身ごもっていたのです。

そして、女の子が生まれました。当時、まだ浦和市という名称の病院ででした。

兄のお友達が主治医でした。

私はかわいい子供を持つことができました。そして、癒される日々が始まりました。

それは充実していました。余裕がなく大変でしたが、安価でよいベビーシッター会社さんにも出会えて、仕事も少し出来るようになったのです。

その時に子育てのためのパンフレットを作成していました。どのように赤ちゃんを持つ人が社会とかかわるような気持になれるかをつづった薄い本をだしてみたのです。それは知り合いに配ったりもしていました。面白い体験でした。この書つくりはのちにかなり影響をあたえることになります。

主人もそのころは収入が安定してきました。

私はとにかく手を抜かないで家事もしていました。

特にパンをつくること、また季節のお祝いのお食事をバリエーションに富ませることなどを生きがいにもしている当時でした。このおだやかな生活がずっと続いてほしいと思いました。

そして、世界も平和であってほしいと思っていたのです


      ★<アメリカのテロ、そして……>★

 ある日、地球儀が夢にでてきます。そのときに、日本の秋田にズームアップされました。

そして、そこから右に向けて矢印ができ、時計回りにすごい勢いで回り始めました。

私にはよくその意味がわからなかったのですが、

あとからその緯度と同じ東側の外国の街をしらべてみると、そこには驚くことに!

 

これはアメリカテロの前日の夢でした。そうでした、ニューヨークがあったのです。

 これには驚きました。

ニュースをみたときにテロがおこったのではなく、人工衛星でも落ちてきたのかと思いました。また、この日まで、ビルに飛行機がぶつかる夢を何度もみたものです。

それには驚いたものです。

 

また、これ以外にも不思議な経験が多く出てくるようになりました。

 有るときに急に松島に行きたくなりました。子供もつれていったのですが、そのときにしきりに地震がもうすぐ、くるからこれなくなるからと家族に言っていたようです。

 そのあとに地震が来ました、これには……なぜか申し訳なく…涙したものです。

他にもお伝え出来ない内容のものが、実はたくさんあります。

 

 その時に思いました。わけのわからない罪悪感に襲われるのです。それを解消しないと前に進めないというものを感じていました、ですが、それから、逃げるように毎日すごしておりました。

 自分にできることはこの不思議な勘を伸ばした方がよいのではないか、ということもふと思うようになりました。

 そして悩みのみならず、あらゆる罪悪感をも打ち消すことのできる、イシリス33メソッドにであい、さらに新しく自分の能力にも目覚めたことになります

 

 第一、私は歯科の仕事をしていても、皆なにかほかのことをしたくて仕方ない状態でいきているのではにないか、我慢してみな私のようにすごしているのか、と思っていました。そして、それが人生とあきらめていました。

 それで、ある日歯科の先生たちの聞いてみました。

すると、そうではないとおっしゃるのです、

むしろ、書きたくてたまらないなんて全くない、それに我慢しているわけではないということなのです

 そのタイミングでSNSをするようにもなりました。そこで、じぶんの好きを生きる人たちに多く出会いました。

 

 その方たちの生き方はずっと私の脳裏に刻み、そして、何時もたまにになりましたがその方たちの記事などをみて勉強させていただいているのです。

 また、歯科の世界においてもさまざまな流派があることもしり、収益を活用し、多くの勉強会にいきました。そこで、実に難しい世界であることも痛感しました。

 

 その私はいま、年月を経て、書籍をかき、

 そして、電子版をすべてデザインするかのようにつくり、また自身の力とイシリス33 メソッドをフルに活用し、仕事をし…さらに

  パワーの必要な人を助けるということをしています。

  また、もちろんときにセッションの仕方を指導してもいます。


 

 *尊敬する人はマザーテレサであり、そして、細川ガラシャ夫人です。そして、父と   母、祖父たちです。