月乃宮千晶 プロフィール

月乃宮 千晶

自分の中に眠る葛藤を小説として書きあげる作家 兼 歯科医セラピスト。
以下に詳しいプロフィールを加えることにいたします


     〈生まれてから6歳まで>

 私は昭和40年代の、8月4日 板橋区東武練馬のある病院にて生まれました。

 大変恵まれた家庭に誕生しました。そして、祖父と祖母とともに暮らし、またたくさんのとスタッフと共に過ごす幼少期でした。

 親が小さいながらも病院をしていたからなのです。

入院患者さんをまわり、配膳もしていた母。その勤勉な態度は私ののちに非常に影響いたします。

 お腹の大きい時に、まだ私が胎児の時に入院患者さんを見て回ったという母の行動は

私が病院の雰囲気と匂いがとても好きであるという風変わりな趣味を導いたものです。

 不思議に病院にいると安心したということを覚えています。

 さて、幼少のころは兄からの影響も受けました。

 兄は活発で、私とは二歳違いですが、自転車の二人乗りをしてころげ、その時にけがをしたのをおぼえておりますが、そのともによく遊んだという経験ものちに影響しているかと思っています。

なんでもこなす兄のようになりたいとひそかに思っておりました。

 そして、父は一代で大きなものを作り上げた人でした。

 その器は尊敬しております。

 その母と、父と兄がいて、祖父がいて、祖母がいる、その環境ではどのようなことが起こるかだいたいお判りでしょうか。

 俗にいう、嫁姑問題です。それは母にとりつらいものがありました様です。

初めて生まれた女の子だと、かわいいと連れていく祖母に、私の子供ですから返してくださいといったこともあるようです。

大きくなり、あまりそのことを聞いてもピンとこなかったのですが、いまおもえば、血の通わない方にこの言葉を直接いうということはかなり勇気がいることなのではないかなと思っております。

仲がわるかったわけではないのです常にバチバチとした緊張した雰囲気のなかで私は過ごしたことになります。

 幼稚園は年少から入学したとおもいますが、あまりなじめませんでした。

それは、カトリックの北町カトリック幼稚園でした。

キリスト教の考えは、私の中に幼少からしみこんだことにはなります。

宗教にすべてをかけていた母方の祖母の姿を見ていた母は、私がそのようになってはならぬと、

幼稚園でいただいたマリア像をほおり投げ、私をしかりました。

覚えているのだからそうとうショックだったのではないかと思います。

家でマリア様、と毎日大きな声でお祈りをしていたようですからね……

天にましますわれらの父よ………という、あの出だしの言葉ですね。

 さて、父はおとなしく母は辛抱強く、また兄は活発で、私は比較的おとなしい方でした。

幼稚園においてはひどくものをはっきりいう子がいて、その子を私はあまり好きでなかったのでしょう。

ただ、救いはりえちゃんという親友です。そして、Iくんという子が好きでした(笑)

それは、私の初恋だったのだと思います。

りえちゃんは私の広い家に遊びに来てくれました。

私たちは、おままごとで盛り上がっていたように思います。

周りには、池があり、広い庭のある家でした。

縁側ので夕方くらいまで遊びました。

この縁側は私に日本の情緒を教えてくれました。よく線香花火をしたのもおぼえていますが、

その風景はいまだに夢に見ることもあります。

花火が好きになりました私は、この環境ゆえ培われたのかもしれません。

忘れられない思い出があるのですが、私は迷子になったことがありました。

幼稚園の帰りに親とはぐれてしまったのです。

ですが、それは驚くことがありました。

実は、川越街道を泣きながら歩いている自分の姿が、目に浮かんだのです。

実はこの時に私は幽体離脱をしていたのではないかと思います。

自分の姿を客観的にみているのですね。

その時はなぜ私は私をみているのだろうか、と…。

まあ、あまり考えられなかったのかもしれません。

それから、この迷子事件において、泣きながらも私はしっかりと自分の家に帰りました。

かなりしっかり者のようでしたからね。

そして、かなり遅くなりましてから、母が心配そうな顔をして、庭から入ってくる姿を縁側から見たのを思い出します。

 また、私は幼稚園では、園長先生が牧師さんでした。

この牧師さんに話かけられても無視をしたのをおぼえています。

その理由は、父と母に知らないおじさんに話しかけられても話すのではないよ、と言われたからなのです。()

(言われたとおりに守ってますね)

自分でも私は、なんて従順な人間だったのだろうかと思っております。

 兄を尊敬し、父をすごい人だと思い、母の影響を強くうけ、そして祖母祖父の深い愛情をも受ける恵まれた環境で育った、律儀で傷つきやすい6歳ですが、途中で幼稚園にはいかなくなりました。

友達がいやなのか、集団生活そのものに嫌気がさしたのか

おぼえてないのですが、卒園式に行く前にどうやら引っ越しをしてしまったように思います

それは祖父と祖母から離れたビルでの新生活を始めることになるからでした。そのころ、母のおなかには妹がいました。それもあるからなのでしょう、

私たちは隣町に引っ越しをすることになります。

                

            <小学生時代>

7歳からのことをお話致します。

私は、父が建てた五階建てのビルに住むようになりました。

スタッフも住み込みの人が多くいました。

それは、賑やかな小学時代を過ごしました。

なんといってもきょうだいとのかかわりが強かったものでした。

また、私にとり、小学時代は、勉強と習い事と運動の日々でした。

運動は腕立て伏せを良くしました。

クラスでわりに勉強のできる男の子がひとりいました。その子が、みなと一斉に腕立てをしているなか、50回を超えても続いていたため、悔しくてしかたなかったのを覚えています。

そして、1,2と数え上げる先生を横でみて

「あなたね、口で数え上げるくらいなら、一緒に腕立てしなさいよ、いっしょにさあ」

と心の中は常に叫んでいました。()

それでも、腕立て伏せだけは負けたくないという、強烈な思いがあり、

家で毎日50回していたのを覚えています。

このストイックな精神は、大人になってからも役に立つようになります。

また、障害物競争の区の選手でしたし、毎回リレーの選手でした。

しかし、私は真面目ですから。(笑)

前をしっかり向いて、といわれていたので、バトンタッチの時にバトンを渡す子を見ずに

前をひたすらみているばかりで、「なに、あの態勢、ばかみたい」という目で、一緒に選手をした女の子に にらみつけられていたのを覚えています。私と同じ千晶さんという人にでした。

そういえば、弟のことを作文に書き、それが表彰されたこともありました。

毎日新聞に載ったのです。文章好きの芽が、密かに出ていたのでしょうか。

 それに加え、ピアノが好きで、特にベートーベンが好きでした。

 暗いメロディーを聞くと安心しました。その証拠の様に、晴れの日よりも雨の日が好きでした。

これは体育を外でするということを面倒に感じていたからなのかもしれません。()

また、ボールの競技が苦手でした。ですが、その中でゴールキーパーだけは得意でした。

「なにこれ、すごいしぶとすぎ、こいつ!」とハンドボールの得意な女の子に面と向かい言われたくらいです。そのくらいに防御においてはかなり自信がありました。絶対に負けるものかという根性がすわっていたのです。

さて、学校で描いた絵は展覧会に出されました。区の中で 選ばれました。それは、日光東照宮の絵でした。デパートの中で展示されました。

私は、緑をモネの絵のようにかくのがたまらなく好きでした。

そして、のちに 緑を大好きでたまらない自分が生まれるのです。

 また、習字は兄と低学年の時に習いました。学校帰りにおなかをすかせ、近くの駄菓子屋さんで おふの御菓子を買い 食いしたのをおぼえています。

 その時に兄と「におったりしないよね、ママにばれないよね」と匂いを嗅ぎあい()

それから家に帰ったのを覚えています

 私の母はとにかく教育熱心でした。

 しかし、母から学びましたのはとにかく料理に手を抜かないことです。

  いまはだいぶ手抜きをするようになってしまいました私ですが、結婚当初はすべて手作り。おせちさえもすべて手作りをしたのを覚えています。

  私には、常に母のようになりたい、という憧れがあったのかと思います。

 そして、自分の周りは憧れだらけで満ちていました。兄を尊敬していました。また、母が大好きでした。兄はとにかく頭がよい、運動はできる、また人気もあるの三拍子がそろった人でした。

 ただ、はっきりしている兄でしたので、ある時に兄の担任と兄はトラブルがありました。その時にさらに別に理由があったのか、学校を転校してしまったのです。

そして、兄が学校から去ってからその翌日。

学校で大変なことが起こっていました。兄の同級生の女の子の人だかりができていたのです。

「どうしたの?」「これあげて~」これプレゼントしてと、それはすごいものでした。

 忘れないのですが、その中にリーダー格の女の子がいました。

Hさんという人でした。

その後ろには副リーダー格の人が構えていました。

この時にすごい人を私はきょうだいに持ってしまっているのだと鼻高々でした。

 私は普通でしたが、学級委員は成績がまあ良いということでやむなく選ばれ、やっていました。

 職人気質でありながら静かなリーダー性を持ち合わせる父に 似ているのではないかと思っています。

 ただ、数学ができなかったのですが、周りには、天才といわれました。

「天才は忘れたころに覚えちゃう」という言葉を私のために作った人がいたくらい。

とにかく物をよく覚える子でした。()

それは将来国家試験のためには 役立つことになります。

 また、器量はあまりよくなかったのですが、色白なだけで美人、と言われました。

また、背が高く細かったので、足が早く常にリレーの選手でした。これを維持したいと、かなりの年になるまで全力疾走を 普通のようにしていたのを(笑)覚えています。

  さて、私にはほかに妹も弟もいたから大変です。それは毎日が賑やかでした。そして、私は半ば母親のような役目をしていたようです。

  ですが、小さい時に良く面倒を見てくれた祖母のところにはよく行きました。

 その時に「千晶がお嫁に行くまで、生きていたい」といわれたのですが、このころから『嫁』という言葉が大嫌いでした。(笑)

 私は妙な点において、好き嫌いがはっきりしていました。

私は将来結婚することになるのであって、嫁にいくんじゃないよ、と思っていました。(笑)

そして、さらにどこか負けず嫌いでもありました。

それは受験勉強をするという形であらわれました。

ですが、どこかいつも夢を見ているような少女でもありましたので、なぜか勉強に集中はできなく(笑)

女子学院と一流国立だけを受けたのですが落ちてしまいました。

 家から線路が見えたのですがこのポイントに三時何分までに電車が来たら受かる、とか………風変わりなことをしていたのですが、のちにいささか妙なものを好むことにつながってきます。

 

        <中学、高校時代>

上板橋の中学に行きました。

そこでは、初めての環境でとても緊張しましたが親友が出来ました。

さくらさんという子です。おとなしくて、優しい美人な子でした。そして、さんという子も親友としておりました。 

私は卓球部に入りましたが、そこでは思いのほか厳しい体制で、二年くらいでやめてしまいました。

もちろん、ピアノをしたり また、勉強をしないとならなかったりということもあったからです。

そういえば、おそろしい思い出もあります。人身事故を見てしまったということです。

綺麗に切断されたご遺体を初めて見てしまいました。

それはショックなものでした。

のちにミステリーをかけるようになったのはこのようなものをみてしまったことも関係あるのかもしれないと思っています。

さて、勉強はよくできました。それにそのため尊敬もされました。私は器量がよくないから、あとはカバーできるのは勉強でしかない、あるいはピアノしかないと思っていました。

その時に何になろうなどと考えたことはあまりありませんでした。

親が歯医者になってほしいと言ったのは覚えています

それをどこかで私は頭に入れていたのか…特に意思もなかったので、親の望むものになるのが良いのかなあと思ってはおりました。

そして、私はひたすら勉強をしました。

その結果なのでしょうか、私は倒れてしまいました。単に過労とおもいきや、ちょっとわけが違うのです。私は泡を吹いて意識をうしないけいれんを起こしてしまうのです

それはてんかんと診断されました。

ですから、この病気を高校受験がはじまる前に治そうということで通院治療が始まりました。

それは大変でした。神経内科にいき、そして、処方された薬を私は飲むようにしました。

その結果治ったとおもったら、かえって調子が悪くなる一方でした。

その時に、私はただ何となく生きていましたように思います。

そこで、私はどうにかしないといけないと思いました。

受験において、都立を受けるのに内申点というのが大きく左右するからです。

治すために、ひたすら通いました。……しかしどんどん悪くなる。

これはまずいと思いました。

私はただ眠く重い体を引きずる、そして、勉強する、それだけで精いっぱいでした。

ですから、時に学校を休む日はでてきました。

そして以前より、成績が振るわなくなってしまいました。

その結果都立受験に失敗してしまいました。

当時は、都立のすべり止めと当時言われていた豊島岡に、私は行くようになりました。

それは楽しい学園生活がはじまるかと思っていたのですが、

その前に入院しようということで、遠くの病院に行き入院検査をしてみました。

ですから、中学の卒業式には出れなくなりました。

そこでは意外な答えを聞きました。

それは薬を間違えていたのでは、ということなのです。

私はびっくりしました。

先生という、医師が間違えてしまうということもあることにも驚きました。

お医者さんは絶対だと思っていたからです。

この経験は、のちに自分が、患者さんに対しそのようになってはいけないという決意を固める礎ができたといえましょう。

そして、私は自分を治すことに専念しました。

別の薬を飲むようになりました。

ですが、その診断を下してくださる先生には心から感謝していました。

観音様みたいでした。

その先生を○○観音、と母はよんでいました。

その先生はクリスチャンでした。

この先生は、私の恩人の一人ともいえます。

そして、この先生とも出会いは、のちにキリスト教に興味を抱くことにも関係してくることになるのです。

やがて、このクリスチャンの先生のおかげで、29歳くらいの時に完全に発作がとまるようになり、薬の生活から解放されるようになりました。

 今でこそ、薬漬けはよくないということになっていますが、当時の私にとり、やはり薬はありがたいものでした。ですが、このことを誰にも言ってはいけないといわれたため、私には苦しい時期がありました。

副作用がそれなりにあったからなのです。

まずむくんでしまうこと。そして、常に眠いこと。

また、情緒が少し不安定になりがちでした。これらには、いささか苦労しました。

ですが、そこで救いになりましたのがあります。

それが、ピアノでした。その音色には癒されました。激しい曲が好きでしたがこれは、自分の心の葛藤を表しているような気持ちがしたのでしょう。

また、この先生の影響で、わたしはキリスト教に関する書物を読むようになったと思います。

三浦綾子さんの『氷点』がはやりましたのは、高校生のころだったと思います。

高校生の頃は薬のせいもあるのか、遅刻ばかりしている毎日でした。

私は精いっぱい生きていましたが体が重くてしかたないのです。

親は誰にもいわない方がいいという。

わたしは馬鹿正直なのでこれをいってはいけないと強く言い聞かせていました。

これは、もちろん、親を神のように敬う従順な性格ゆえです。とにかく、秘密を遵守しました

常に救いはピアノでした。

ピアノは、私を別世界にいざなってくれました、この逃避こそが、私にはよかったのです。

高校時代は厳しい校則で、がんじがらめでした。

あまりに高校生活が面白くなかったため、早く共学の環境にも行きたいと思っておりました。

しかも、高校ではひたすら、ボケキャラでした。(笑)

また、英語をたまらなく好きでした。英語そのものが、音楽のように思ったのです。

また同時に、同時通訳方式のSIMを学びました。

きっと、私はエリートのきょうだいにくらべ、誇れるものがほしかったのです。

英語とピアノに関しては、ほかのきょうだいよりはできるということが私にとり、嬉しいことでした。

また、私は、ただ親が喜ぶように存在できればいいと思っていました。

しかし、高校二年くらいから音楽の道に行きたくなりました。

これには親の大反対をくらうようになります。

 

 

          <高校二年より立教大学まで>

 

私はピアノの道に進むようになりたいと思い始めていました。

ピアノの上手な同級生がいて、彼女は常にショパンばかりを弾いていました。そして私もショパンを弾くようになるのですが、ひそかに彼女のようになりたいと思っていたのかもしれません。

ですが、今からでは限界がある。そこで、近くの大学か、或いは当時のピアノの先生の出身校である、国立音大に行けるようにしたいと思うようになりました。

練習は大変でした。

声楽の先生のところにも行きました。声は出るし体格も素晴らしいと評価を受けていました。声楽の先生は教授の先生でした。その先生には、声楽をすれば歌だけで食べていけるとまで言われました。

しかし、まともに勉強の時間が取れなくなっていきました。

ですが、学校の勉強の中でも、英語だけは好きでしたので、これだけは、頑張っていました。

ある日母に泣かれました。

このようなことをするために私を産んだのではないと。

そして、何のためにこのような道に行くのかと嘆かれたのです。

私はただピアノが好きだからとしか思えない感じでした。あまりに泣いているので、私は申し訳なく思うようになりました。

そして、母と、帰りに、天理教を信望している方の祖母が、入院していた日赤の広尾病院に祖母を見舞いに行きました。

その際に、じっと私を見つめて無言でいる祖母がいました、その目は私に何かを訴えているようでした。そして、私の手をしっかり握りしめました。その時に、テレパシーの様に、母の言うとおりにした方がいいというメッセージを感じたのです。

「おかあさん、私ピアノやめるから」とはっきりいいました。

家に入る少し前で夜道を歩きながらつぶやくように言ったのを覚えています。

母は、家で仕事をしていたわけですが、資格を持っていたわけではありません。

ですから、母は、娘たちに託す夢を持っていました。それは、生涯自分だけで生きていけるような資格を持たせることでもありました。

(のちに、私はそのいうことを聞くようになっていくようになります)

学校では、高校3年になりましてから進路をどうしようか、ということになりました。

散々もめてしまいました。今からでは到底理系への進学は間に合わないのです。

そして、はっきりとはよくおぼえていないのですが、

隠れてDJになるための資料を取り寄せたり、日本大学芸術学部の入学について、今度は調べ始めていました。

興味が理系については全くありませんでした。そこで、今からでは、短大にしか行かれない学力しかないから、いっそのこと一年浪人した方がよいというこ一ことになり、浪人することにしました。

一橋予備校は、一番学費が安価のように思いました。それで、このことも母に話し、この予備校に通うと私は言いました。

忙しい学校生活を卒業し、嬉しかったものでした。

在学中には、たまにやけを起こしてやけ食いをしてしまうこともありました。

バタークッキー缶一つをまるまる一時間で開けてしまったこともしばしばありました。

私がここで覚えておかないといけないと思ったことは、高校生は死ぬほどいそがしいから、将来子供ができても、子供が高校の時には、用事を頼んだらいけない、ということです。

また、気分転換に大好きな英語の文通を密かにしていました。同性異性問わずペンパルが多くいたように思います。

そして、一年浪人してから、立教大学に入ります。

大学では哲学の専攻科に入りました。入るのに簡単と聞いていたからでした。

とにかく楽をして……(笑)近くておしゃれな立教にいけたらいいとおもっていたのです。

すぐにE.S.S.含め英語のクラブ二つに入り、スクエアという、軟式テニスサークルにも入りました。

(のちにこのサークルはつぶれてしまったようです)

9号館というところが集合場所でよく城北公園にいきました。

ルーエという喫茶店に行くのが常でした。

そのルーエ。これは、休息という意味のドイツ語なのです(大学でドイツ語をとっていたから理解ができます)

ここではたくさんのお友達ができました。

ただ、とにかく広く浅く付き合いました。

合コンにも行きました。大変楽しかったです。私にとり、浅い付き合いも大事なものでした。

多くの人に出会うことが好きで、時間を共有することがたまらない楽しさでした。

てんこちゃんという友達がいました。のちに、立教の皆が卒業するときに謝恩会を高輪でするから、という案内をくれたのですが、歯科大が遠かったので、行くのに大変なため、断ってしまいました。

この立教での経験はのちにキリスト教を愛し、友達との交流が好きでたまらない性格になるというところにつながっていきます。私にとり、これは充実した青春時代でした。

女の子には特に好かれました。千晶ちゃん千晶ちゃんと呼ばれました。

それでいて、友達が大好きなため、あらゆる誘いも断らないゆえ、常にスケジュール帳も真っ黒でした

 朝方スキーバスでからかえり、それから大学に行きそして、クラブにいく、さらに気を使うという生活をひたすらくりかえしていると、ある日突然倒れてしまいました。

私は、親を大変心配させてしまったのです。

また、アルバイトをたくさんしたのですが、この過程において、自然な形で私は、組織の中で、或いは会社の中ではやっていけないタイプであるということを学習し始めました。

その経験が、歯科大に行く方がよいという選択に向かいました。

(歯科大に行くことを決めた当時は、父も母も大変喜んでくれました)

 英語のクラブにおいては、討論の部にいました。

この部は、男の子も女の子も不思議に歯科大に行きそうなタイプの人が多いということを感じていました。

そして、なぜか卓球部である人が多かったという点が笑えました。

みな、それぞれ、共通点がある。そして、同じような方向にすすむのかなと思った次第です。

その人の分析が好きな性分はこのころからだったのかもしれません。

B型が多いのは英語討論の部、そして、歯科医にもB型が多いものでした。

ですから、違和感を感じることなく、歯科大に転向できたのかもしれません。

 

 

         <歯科大、研修医時代>

 

立教で二年のころ、授業中にずっと生物を勉強しました。

歯科大は、生物、英語、小論文のみの入学試験である大学にターゲットを絞りました。

歳をとってしまう前に(笑)歯科大に行かないと思い焦っていました。

そして、無事に合格し、歯科大に行くことになりました。

なんとか家から通える距離でしたが、3年からは学校の近くにアパートを一室借りました。

そこを借りておいて、勉強が大変な時には必ず泊まるということにしました。

 

立教をやめたくなかったのですが、同時に二つの大学に行くことは、法に触れてしまい、やがてどちらも退学になるときいたのです。そのため、私はなくなく退学をしました。

歯科大では、周りの友人より3歳年上でした。

はじめは少し気後れしましたが、そのうち年齢があまり関係ないということを実感しました。

みんないろいろなことにたけていて、個性ある方もいて面白く、男の子が多い環境が刺激的でした。

今までにないものでした。

ただ、実習が苦痛で仕方ありませんでした。

競争するような感じでした。遅いと、クスッと、笑われることもありました。

周りがすべて終わらせているのに、自分が作業を終えていないと、非常に焦り、涙してしまうことも多かったのです。

これには困ったものですが、これは薬を飲んでいたことも関係しているのではと思います。

制御ができないというか、不思議な情緒不安が常にありました。

それに加え、しかし飲み会が大好きでした。これは人を選ばずに頻繁に行きましたのを覚えています。

とにかく不安が多いものだから、さみしいような気持を埋めたかったのでしょう。そう思います。

そして、個人的にもいろいろな人と仲良しになりました。

特に高学年になると、臨床の学びも大事と考え、歯科医院へアルバイトにも行きました。

自分でお金を作れるという喜びもありました。その歯科医院は、学校からは距離がありましたが、とても親切でそして、いつも個性的な先生が出入りしている、ユニークな医院でした。H歯科でした。

楽しい思い出もありましたが、怖い先生もいて、気も使いました。

ここでの経験はのちに、私に強い影響を与えたと思います。ここの院長先生は、私にとり、二人目の恩人です。

このころ、毎日聖書も読んでいました。こころが不安定でもあったからです。

おまけにむくんでいました。あまりにむくんでいるので、悪口も言われました。

でも、自分は自分だから、いいや、と割り切っていました。

その姿勢に感動してくれる同級生も、心優しい味方もいました。個人的にも何度か飲みに行きました。

 楽しい思い出でもあります。ここでは女の子の友達ももちろんいましたが、途中で友達をかえたくなりました。そのため、ある子たちから離れはじめたのですが、その女の子から嫌な仕打ちをうけるようになりました。

少しつらいことでした。ですが、それを常にみまもり、かばってくれる人もいました。

田舎の学校ですから、人間にまず目がいくのです。とても心あたたまり、感激していました。

そして、卒業するようになります。

国家試験に備えては、とにかくすべて丸暗記しました。

あまりに歯科の内容は、物理的な内容も加わり、むずかしすぎるため、暗記そのものが、私にとり、一番早い方法でした。

そのあとに余裕をみて考えるのでいいや、と思っていたのです。

それがその当時の対策としては、一番有効でした。

今現在の歯科の国家試験とは明らかに違います。

もともと文系志向でしたから、暗記が得意で、知識を積み上げていくような作業のほうが好きでした。

自分の好きなもの以外に興味がない傾向がありました。

考えていくということにおいては芸術系ならよいのだけど、という感じです。

この傾向はのちにいろいろな影響をあたえてしまうことになります

 

そのようにして、自分は楽に国家試験に合格し、無事に卒業しました。

仲たがいしていたのかな、という子とも最後は仲直りしました。

平和が好きなのでとてもうれしかったです。

そして、今度は家から通える歯科大の附属病院の研修に行くことにしました。

研修医の試験がありましたので、この試験を受けて無事にうかりました。

ですが、ここはエリートばかりの集まるところに所属してしまい おまけに傷つきやすい性格が災いし、閉じこもりがちな性格になってしまいました。

その影響は良い形で現れませんでした。すべてが、周りからの誤解だらけ。それはつらいものでした。

また、暗記中心で乗り越えてきた私は、すべてを理解しまた実地を一年こなしてきたエリートの研修医から見るとバカそのものでした。

 

これは治したいと思いました。ですが、ここで頑張っても自然にまかせるより仕方ありません

とにかくなんとか仲間はいましたので、お互いに励ましあいなんとか二年を終えました。

それからはある開業医に努めるという選択をとるようになります。

 

                <開業医勤務時代から結婚へ>

 

歯科大を卒業しそれから開業医で働きました。

私は14歳のときからの状態をなおすために、病院に定期的に通院しました。

そのため、歯科の勤務は当時少々苦痛でした。

加えて、医院で勤めさせていただいている以上、院長と同じポリシーの元、治療をしないとならないストレスもありました。

そのやり方が正しいとは思いませんでした。たくさん練習をし、教科書と同じようなことをするようにがんばりました。

ですが、実際の臨床は違うものでした。

ほとんどの先生は、卒業してからさらに高額なお金をかけ、加えて勉強し直すような状態でした。

それには疑問を感じてしまいます。

時間のある時には、比較的お金がかからない講習会には行くように努めました。

この人は、勉強する歯医者だろうか、そして難しい言葉をしっているのだろうか、ということで、

歯科医のすべての人間としての価値が決められてしまうのです。

何もできないとか、向上心のないような人はクズ扱いでした。

また、狭い世界の仕事ですから、口の中だけを見て仕事をしてすることが、私としては時に苦痛となってきます。

そして、何も話すということなく、次第に口がきけなくなっていく自分に焦りを覚え始めました。

ただ、気の合う友達がいるということで、たすかりました。歯科医院では、よく話せる友達ができました。

 K先生という、鹿児島出身の女性の先生です。この先生には子育ての相談を頻繁にしのちまで、感謝するようになります。

また、恋愛感情なのかわかりませんが、言い寄られるようなこともありました。

 

男性歯科医は自分の周りには、結婚するにふさわしい人がいません。

おまけに当時は、たまたまあまり良い人がいなかったように思います。

 私はもう20代後半になっていました。ふと、気づくと、このままでいたら結婚そのものができないと思いました。私は、以前から結婚はできればした方が良いという考えであったのです。

これはまずい、しかし、歯科医は変な人ばかりだからいやだと心から思いました。そこで、別の職種の人の紹介をお願いしようと思いました。

自身で、相手を紹介により探す選択肢を思いついたのです。

そうすると、何度かお見合いのような形で、結婚相手を探そうかということになりました。

言い寄る人がいて、怖かったというのもあります。

そのままよくない恋の道に入りそうな気がして、それを結婚するということで避けたいと強くおもうようになったというのもあります。

それは、ずるい考えでもあったかもしれません。

そして、私は結婚相手をみつけようとするのですが、家が医師なので同じ種の職業の人がいいかなと思いました。

そして、A氏と出会いました。

出会った日は嵐の日でした。

この台風の日に会いにきてくれるはずがないと強くおもっておりました。

しかし、その男性はいました。その意外性に驚きました。少し変わった人という印象でした。

しかし、ちょっと堅物な感じがしました。

彼は、誠実の塊のような印象を受けました。

 

ですが、それがあきらかに自分にとり、安心感となりました。

自分たちの家がかなり個性的な家であったからなのです。

また、文学も好きな人でした。私はあまり文学には興味がさほどなく、どちらかといえば、、詩歌やうた、英語のように感じられる音楽を愛していました。

(それでも、ドストエフスキーをボーイフレンドに進められて読むことも多くありました。また、芥川の書籍にはピアノという題名のエッセイがあり、実はこの種の類いのものが好きでした。私は文学の好みが比較的はっきりしていたのです。)

ですから、この文学や書籍を愛している医師ということにも興味を持ちました。

これは間接的に私がのちに文学活動をすることに影響を与えていたのかもしれません。

恋愛感情というより、安心感でした。そして、何よりも裕福な家庭のなかで過ごしたにかかわらず、精神がいささか満たされていない様に思っていました。

本当に好きなことを追求していくためにも、今自分に必要なのは精神的な解放感でした。

それはまだ漠然としています。果たして、どのようなものかもわかりません。

きょうだいにはとても明るく楽しいだけの私にはみえていたのですが、自分の中には、常にくすぶりがありました。

もっと好きなことをして生きていきたいという欲望でした。

それは完全に満たされるには結婚してからだろうと思ったのです

そして、私はこの地方出身の素朴な、まじめな医師と結婚することになったのです。

父も母も大賛成でした。それが非常にうれしいことでした。彼は、誠実で、まじめな人だからです。

そして、この人と一緒にいる時のA氏の、私を見る目がとても大事なものを見守るようで、また穏やかであると。そして、それこそが父や母にとり、安心だ言われました。

私も、とても自信あふれていて、のびやかで幸せなのが見て取れるといっていました。

父も母も賛成してくれる。そして、自分も思うようにのびのびできる。

それなら、大丈夫であると感じました。

おまけに、A氏は私と時間を過ごす中で驚くほど変わっていきました。

とても柔らかくなり、顔立ちもこわばった神経質な雰囲気や痩せているような感じが消えていったのです。

A氏のご両親がこれに驚きました。そして、それを聞いたときに私はうれしさと感激でいっぱいでした。

私を求めてきてくれる人がいる!

そして、私といることで、ここまでよく変わる人がいる!

それは何より私の自信になりました。そしてこれこそが私の幸せでもあったのです。

 

           <結婚、そして、子育て>

 

結婚してからは、初めは大変でした。

地方から出てきた主人は、関東の病院では初心者扱いでした。

その状況はいわば、やむを得ないものでした。

ですから、はじめ私は毎日に近い状態で働きました。

以前勤めていた開業医は、薄給というのもあり、生活のためにやめました。

それで、歩合制の歯科医院に勤めました。

自分の仕事の売上分がその分反映されるからです。

私は懸命になり、働きました。

たくさん治療を保険でこなすということに奔走しました。

スポーツする様に働いているといってもよいでしょうか。

それは汗をかき充実している毎日に初めは思えました。

時には倒れそうになりながら、しかしだんだん、違ってきました…。

眼精疲労になり、吐き気をもよおし、うずくまりながら1時間かけて通勤することさえでてきました。

夜遅くまでの勤務体制に、私は耐えられませんでした。

全く休みのない勤務に耐えられません。

よく寝込んでもいました。

あまりにハードに働くがきつすぎました。

その結果家でも泣いたこともありました。

どうやら、自分の場合 涙を流すことでストレスをとることもしていたのではないかと思うのです。

主人は優しい人でした。そして、一生懸命に働く私を慰めてくれました。

また、ちょうど当時、母が癌になり、働くペースをダウンさせないとならないというのもありました。

母はその時に足利の病院にいたからです。

おまけに、女性にとり歯科の仕事は酷でした。

勤務時間は、夜には必ずです。おまけに、毎回仕事の後の疲れが尋常ではありません。

ですから、いかにして疲れないで長時間仕事が出来るかなど、人間工学的な事柄も調べていました。

また、ストレス解消に心の支えとなっていたピアノをまた始めてもいました。

やがて母が亡くなりました。

それから、しばらくして私の恩人である、病気をなおしていただいた人も亡くなりました。

29歳の時に私は自分の薬を断つことができるようになりました。それで、結婚もできる、子供もと思えるようになりました)

 さて、いろいろな人の死に対面することで、私はその命の意義についても考えるようになりました。これは小説を書く際にも内容に影響していきます。

母が亡くなって間もない時に私は、秩父に住んでいました。

主人の仕事でついてきたのです。

ですが、ときに、私は思わず自殺をしそうになりました。

何でも母に、すべてを相談し、きいて生きていたからです。

大好きでたまらない母がいなくなったからです。

きっとどうしていいかわからなくなったのです。

それは不思議でした、いつの間にか私は身を乗り出し、車に突進していました。

あとで思えば、恐ろしいと心から思ったものです。

そして、人はどのようにして、このような状態にいたるのか、

そこまで泣き続けた日々があって、それにつかれた瞬間があって

我を忘れてしまうからなのだと思いました。

それには驚きました。

ちょうどその様な時にこの心のサイクルを防止できるものが、今に取得なりできたらいいな、と思ったものです。

その時の私にとり、ちょうどいいもの?ができました。

ものではありませんが()子供の誕生です。

私は秩父を引っ越すときにすでに身ごもっていたのです。

そして、女の子が生まれました。当時、まだ浦和市という名称の病院ででした。

兄のお友達が主治医でした。

私はかわいい子供を持つことができたのです。

そして、癒される日々が始まりました。

それは充実していました。

余裕がなく大変でしたが、安価でよいベビーシッター会社さんにも出会えて、仕事も少し出来るようになったのです。

その時に子育てのためのパンフレットを作成してみました。

どのように赤ちゃんを持つ人が、社会とかかわるような気持になれるかをつづった薄い本をだしてみたのです。

それを知り合いに配ったりもしていました。面白い体験でした。

この書籍作りは、のちにかなりの影響をあたえることになります。

主人もそのころ、収入が安定してきました。

私はとにかく手を抜かないで家事もしていました。

特にパンをつくること、また季節のお祝いのお食事をバリエーションに富ませることなどを生きがいにもしている当時でした。

この穏やかな生活がずっと続いてほしいと思いました。

そして、世界も平和であってほしいと思っていたので

 

      <アメリカのテロ、そして……

 ある日、地球儀が夢にでてきます。そのときに、日本の秋田にズームアップされました。

そして、そこから右に向けて矢印ができ、時計回りにすごい勢いで回り始めました。

私にはよくその意味がわからなかったのですが、

あとからその緯度と同じ東側の外国の街をしらべてみると、そこには驚くことに!

 

(これはアメリカテロの前日の夢でしたが)

そうでした、ニューヨークがあったのです。

 これには驚きました。

ニュースをみたときには、テロがおこったのではなく、人工衛星でも落ちてきたのかと思いました。

また、この日まで、ビルに飛行機がぶつかる夢を何度もみたものです。

 

また、これ以外にも不思議な経験が多く出てくるようになりました。

 あるときに急に松島に行きたくなりました。子供もつれていったのですが、そのときにしきりに

「地震がもうすぐ、くるからこれなくなるから」

と家族に言っていたようです。

 そのあとに地震が来ました、これには……なぜか申し訳なく涙したものです。

ほかにもお伝え出来ない内容のものが、実はたくさんあります。

 

 その時に思いました。わけのわからない罪悪感に襲われるのです。

それを解消しないと前に進めないというものを感じていました。

ですが、それから、逃げるように毎日すごしておりました。

 自分にできることはこの不思議な勘を伸ばした方がよいのではないか、ということもふと思うようになりました。

 そして悩みのみならず、あらゆる罪悪感をも打ち消すことのできる、イシリス33メソッドにであい、さらに新しく自分の能力にも目覚めたことになります

 

 第一、私は歯科の仕事をしていても、皆なにかほかのことをしたくて仕方ない状態でいきているのではにないか、我慢してみな私のようにすごしているのか、と思っていました。そして、それが人生とあきらめていました。

 それで、ある日歯科の先生たちの聞いてみました。

すると、そうではないとおっしゃるのです。

むしろ、書きたくてたまらないなんて全くない、それに我慢しているわけではないということなのです。

 その時から、SNSをするようにもなりました。

そこで、自分の好きなことを生きがいに生きる人たちに多く出会いました。

 

 その方たちの生き方はずっと私の脳裏に刻み、そして、その方たちの記事などをみて勉強させていただいているのです。

 また、歯科の世界においてもさまざまな流派があることも知り、当時の収益を活用し、多くの勉強会にいきました。

そこで、実に歯科を完璧にするにはこの世界は私には難しい世界であることも痛感しました。

 

 その私はいま、ある年月を経て、書籍をかき、

 そして、電子版をすべてデザインするかのようにつくり

また自身の力とイシリス33メソッドをフルに活用し、仕事をし…さらに

  パワーの必要な人を助けるということをしています。

  また、必要に応じ、セッションの仕方を指導してもいます。

 

 

 *私の尊敬する人はマザーテレサであり、そして、細川ガラシャ夫人です。そして、父と母、祖父たちなどです。

 

 

あとがき

 

読んでくださりありがとうございます。

 

私は、歯科医であり、作家です。

わたしにとり、かくこと、表現することは生業であり、かつ人生という物自体、様々なことに遭遇する、充実した旅路であると思っています。